刺し子——布を強くするために重ねた針目
藍色の布に、白い糸の針目が規則正しく並ぶ「刺し子」。いまは手芸として親しまれていますが、もとは布を丈夫に、暖かくして使い続けるための工夫でした。その成り立ちを見ていきます。
藍色の布に白い糸で、麻の葉や七宝つなぎといった幾何学模様が描かれた布巾を、雑貨店や手芸店で見かけることがあります。「刺し子」と呼ばれるこの針仕事は、いまでは趣味の手芸として知られています。けれども成り立ちをたどると、飾るためというより、布を長く使うための技法だったことがわかります。
補強と保温のための針目
刺し子は、重ね合わせた布に模様を描きながら細かく刺し縫いする手仕事で、江戸時代中期ごろに生まれたといわれています。全国各地で行われてきたもので、どこが発祥なのかははっきりしていないようです。
目的として挙げられているのは、寒さを和らげる保温と、作業着などの補強・補修です。布が貴重だった時代には、薄くなった布を重ねて針目を通すことで、厚く丈夫な一枚にして使い続けていました。以前紹介した「ボロ」も、こうして布を重ねて刺し継いだ先にあるものです。模様は40種類以上あるとされ、七宝つなぎ、麻の葉、紗綾形、籠目などがよく知られています。
津軽のこぎん刺し——麻布の目を埋める
東北地方には、「日本三大刺し子」と呼ばれる三つの刺し子が伝わっています。そのひとつが、青森県津軽地方のこぎん刺しです。
津軽は寒冷で綿の栽培が難しく、さらに1724年(享保9年)の「農家倹約分限令」によって、農民は仕事着や普段着に木綿を使うことが禁じられ、紺色の麻布を着ていたとされています。目の粗い麻布は風を通しやすく、冬の寒さを防ぎにくい布でした。明和年間(1764〜1772年)に木綿の糸が手に入るようになると、農家の女性たちは麻布の織り目を糸で埋めるように刺し、暖かさを保つ工夫をしたと伝えられています。
こぎん刺しは、縦の織り目に対して一・三・五と奇数の目を数えて刺していくのが特徴です。「モドコ」と呼ばれる基礎模様は、現在約40種類あると紹介されています。
南部の菱刺し、庄内の刺し子
同じ青森県でも、南部地方に伝わるのは菱刺しです。こちらは織り目を偶数で数えて刺すため、模様が横長の菱形になります。青森県南部菱刺し協会の紹介によれば、約250年前にはすでにあったとされ、浅葱色の麻布に白や黒の糸で刺したものから始まり、のちに色とりどりの糸も使われるようになりました。「型ッコ」と呼ばれる単位模様は400種を超えるそうです。
山形県の庄内刺し子は、少し事情が異なります。庄内には日本海の海運を通じて上方の古着や古布が届いていたため、それらの布を重ねて刺し、厚い防寒着に仕立てることから始まったとされています。藍染めの木綿に白い糸で刺す模様には、豊作や魔除けの願いも込められていたといいます。古着を重ねて次の一着にする、という点で、このサイトの主題にも近い刺し子です。
火消しの刺子半纏
刺し子は、農村の仕事着だけのものではありませんでした。東京消防庁の解説によると、刺子は江戸時代に使われはじめ、当時の防火被服を代表するものだったとされています。木綿の布を二重三重に重ねて刺してあるため吸水性に富み、火事場へ向かうときには頭から水をかぶって出場したそうです。水を含んだ刺子はかなりの重さになり、すばやく動くのは難しかったとも書かれています。
布を重ねて針目を通すと、厚く、強くなる。その性質が、寒さに対しても、火に対しても使われていたことになります。
いま刺し子を手にするとき
こぎん刺しの着物は、昭和初期に柳宗悦らの民藝運動のなかで再評価されたとされています。菱刺しも、昭和に入って刺す人が減ったのち、1960年代後半に民俗研究家の田中忠三郎氏による収集・研究をきっかけに見直されたと紹介されています。暮らしの必要から生まれた針仕事が、のちに美しいものとして受け止め直されたわけです。
いま刺し子は、布巾や小物づくりのほか、すり切れたデニムの膝や肘を補強する方法としても使われています。薄くなったところに裏から布を当て、並縫いを重ねていくだけでも、布はしっかりします。穴が開いてから直すだけでなく、弱くなる前に針目を足しておくという考え方は、手持ちの一着を長く着るうえで参考になるのではないでしょうか。
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