バスクシャツ——船乗りの縞が定番になるまで
白と紺のボーダー、横に広く開いたボートネック、厚手の編み地。バスクシャツと呼ばれるこのシャツは、もとはフランス海軍の船乗りの服でした。縞の本数まで規定で決められていた服が、なぜ160年以上ほとんど形を変えずに着られてきたのかを見ていきます。
古着屋のカットソーの棚には、たいてい白と紺のボーダーが何枚か掛かっています。襟は横に広く開いたボートネック、袖はやや短めの九分袖、生地は厚手のコットンジャージー。日本ではバスクシャツと呼ばれることが多いこのシャツは、フランスでは「マリニエール(船乗りの服)」や「トリコ・レイエ(縞のニット)」と呼ばれています。30年前のものでも、いま店で売られているものと並べて違和感がほとんどありません。
1858年、縞の本数まで決められた制服
この縞のシャツがはっきりと記録に残るのは、1858年3月27日付のフランス海軍の規定です。水兵と下士官の制服として縞のニットが加えられ、士官と見分けるためのものだったとされています。規定では胴の白い縞は21本、紺の縞は20本か21本で、白い縞は紺の縞の2倍の幅と定められていました。紺は当時もっとも堅牢だった藍染めの色です。袖の縞の本数まで決まっていたと伝えられています。
「21本の縞はナポレオンの21の勝利を表す」という話がよく語られますが、数え方も定まっておらず、史実というより伝説として受け取るのがよいようです。また「縞があると海に落ちた人を見つけやすい」という説明もよく見かけますが、こちらもはっきりした根拠は確認されていないようです。
英語ではブレトンシャツ、つまり「ブルターニュのシャツ」と呼ばれます。これは、フランス海軍の水兵にブルターニュ地方の出身者が多かったことに由来するとされています。日本で使われる「バスク」という呼び名は、フランスとスペインにまたがるバスク地方の漁師や船乗りの作業着に由来するという説明が一般的ですが、起源をノルマンディーの漁師の服とする資料もあり、呼び名の由来には複数の説があります。
港の服が、リゾートの服になった
船乗りの服が街に出てきたきっかけとして、よく名前が挙がるのがココ・シャネルです。第一次世界大戦のころ、海辺で休暇を過ごしたシャネルが地元の船乗りの制服に目をとめ、ノルマンディーの保養地ドーヴィルの店で「ネイビー・スタイル」と名づけた短い丈のマリニエールを売り出したとされています。1930年代には欧米のリゾートウェアとして広まり、アメリカ人画家ジェラルド・マーフィが着て知られるようになったとも伝えられています。
1950年代には、写真家ロベール・ドアノーが南仏ヴァロリスの自宅で撮ったピカソの肖像が、縞のシャツを着た芸術家の姿を広く印象づけました。ピカソは撮影のときに作業着を選んで着ていたとされ、縞のシャツもそのひとつでした。1983年にはジャン=ポール・ゴルチエがコレクションの中心にマリニエールを置き、男性の服として改めて広まっていきます。
セントジェームスと、ブルターニュの編み地
いま古着屋で見かけるバスクシャツの多くは、フランスのニットメーカーが作ったものです。たとえばセントジェームスは、1850年にノルマンディーのサン・ジャム村で紡績所として始まり、1889年に会社となって「ブルターニュの漁師のセーター」を最初の製品として売り出したとされています。1980年には輸出を始め、その最初の相手が日本だったと同社の沿革にあります。日本の古着屋に同社のバスクシャツが多いのは、この時期からの長い付き合いがあるためのようです。
こうしたメーカーの定番品に共通するのは、目を詰めて編んだ厚手のコットンジャージーです。薄手のTシャツより重く、着はじめは少し硬さを感じるほどですが、そのぶん伸びにくく、生地が薄くなるまでに時間がかかります。襟の形も身幅も、流行に合わせて大きく変えられてこなかったため、何十年か前のものでも「古い型」になりにくいという事情もあります。
変わらないことが、長く着られる理由になる
古着のバスクシャツを選ぶときに見ておきたいのは、首まわりの伸び、袖口や脇の毛羽立ち、紺の縞の褪せ方です。縞のシャツは褪せても味に見えやすい服で、襟が伸びていれば縫い縮め、袖口がほつれていれば裾上げの要領で直すことができます。生地が厚いので、縫い直しに耐える余地もあります。
新しいボーダーのシャツが悪いわけではありません。ただ、すでにある一枚が160年前の規定とほとんど同じ形で残っているのなら、それを選ぶことで新しく一枚を作る負荷を使わずに済みます。古着屋で縞のシャツを手に取ったら、胴の白い縞を数えてみてください。21本前後なら、その一枚は船乗りの規定をいまも引き継いでいることになります。